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はじめに

本サイトは、『かわいいウルフ』の内容が試し読みできる特設サイトです。

第1章:長編紹介『ダロウェイ夫人』

ダロウェイ夫人 Mrs.Dalloway

「お花は私が買ってきましょうね、とクラリッサは言った。」

 『ダロウェイ夫人』は、ウルフ作品の中でも、比較的よく知られた作品です。パーティを開く準備のため、クラリッサ・ダロウェイ夫人はロンドンを歩き回り、買い物にでかけます。その道中、街で出会う人、過去に出会った人、今の家族や友人といったさまざまな人や思い出への意識が去来していきます。「ロンドンを歩き回るのは楽しいわね」―ウルフの筆は、そんな多くの人の頭のなかを飛ぶようにめぐりながら、やがて夜のパーティを目指して向かっていきます。

 本書が素晴らしいのは、二〇世紀初頭のロンドンの地理を描いていることです。光文社や新潮社の文庫版の『ダロウェイ夫人』を開いてもらえれば、本文が始まる前にロンドンの地図が広がっていることに少なからず驚きを覚えるでしょう。ビッグ・ベンの鐘の音にはじまり、セント・ジェームズ公園を抜け、繁華街を通るクラリッサ。クラリッサと入れ替わるように、オックスフォード通りから北の公園へと向かっていくセプティマスとレーツィア―それはまるでツアーガイドのようで、小説という形式を取ったガイドブックのようです。本書の中でウルフは、ロンドンという街そのものを描写しようとしているように思えます。かくいうわたしも『ダロウェイ夫人』を読むときは、Google Mapsで通りの名前を確認しながら読み進めています。登場人物たちはあちらこちらを歩き回り、道案内をしてくれるのです。

 また、『ダロウェイ夫人』に関連した作品として、一九九七年にオランダ人のマルレーン・ゴリス監督による映画化作品があります。また作家マイケル・カニンガムは一九九八年に『めぐりあう時間たち』(原題:The Hours)を発表。これはウルフと、『ダロウェイ夫人』を愛読する二人の女性が主人公であり、三つの異なる時間軸を行き来しながら、人生の不可思議さと謎について書かれた小説です。本作はピューリッツァー賞を受賞しベストセラーになりました。さらに二〇〇二年にはハリウッドで映画化。鼻の特殊メイクでウルフになりきったニコール・キッドマンは、アカデミー賞主演女優賞を見事獲得しました。  文章の中の空間と、実在するロンドン。そのめくるめく繋がり―それは小宇宙的で、神の視点すら感じさせます。例えるなら、おままごとで遊ぶような感覚をわたしたちに思い出させてくれます。まるでウルフが、ミニチュアのロンドンの中で、人物たちを思い思いに動かして遊んでいるみたいに。それはまるで作品にも登場するメアリー王女のドールハウスのように精巧で、すみずみまで美が込められた世界です。物語には、確かに生きることの悲しみや苦しみも存在します。しかしそういった感情も含めて、小説の中で一人遊びにいそしむウルフの姿が『ダロウェイ夫人』を読んでいると目に浮かぶようです。「お花は私が買ってきましょうね」―このせりふなんか、まさにおままごとをする女の子のつぶやきのようにも聞こえませんか。

 

[註]

1 ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』、土屋政雄訳、光文社、二〇一〇年、一一頁
2 一九二〇年代に英国王ジョージ五世の王妃、メアリー・オブ・テックへ贈られたドールハウス。一二分の一スケールで作られており、現在もウィンザー城で展示され人気を博している。

第2章:形態素解析でみるヴァージニア・ウルフの文章

ワードクラウドによる作品比較

解析手順

 ウルフの原文はすべて著作権が切れており、プロジェクト・グーテンベルクというウェブサイトで無料で読むことができます(日本の青空文庫と同じ仕組みです)。今回は、データ分析の分野で使われている「R」というプログラミング言語と、形態素解析という手法を用いて、ウルフの小説に頻出する単語を抽出しました。まずはテキストデータをダウンロードし、それをRで解析し、「ワードクラウド」と呼ばれる画像を生成しました。これは文中の頻出単語を視覚的に表現したもので、文字が大きいものほど、小説内に多く出現しているということを示しています。

参考:『高慢と偏見』(一八一三年)

 まずはウルフの作品を見てみる前に、イギリス文学で最も有名と言っても過言ではない恋愛小説、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』を見ていきたいと思います。これは一八一三年の小説で、ウルフよりもちょうど百年ほど前の文章です。本作を選んだ理由は、ヴィクトリア朝のメインストリームな女性作家であることと、ウルフ自身もオースティンを読んでいたことがわかっており、影響を受けているのは間違いないと考えられたためです。

 結果を見ると、もっとも頻出しているのは主人公であるエリザベスの名前で、ついで恋のお相手となるダーシーが続きます。また will, said といった言葉も多く、地の文の三人称「Elizabeth said」といった表現が多いと推測できます。その他人物の名前や固有名詞が多く見られます。

 また興味深いのが must がそれなりの大きさを占めていることです。原文を見ると、会話文の中で「I must confess」「I must say」といったせりふが散見されました。これはまだ女性が抑圧されていた時代であり、自立した生き方をするのが難しかったことを示唆しているように思います。そのほか、固有名詞やsister, father, familyといった単語も興味深く、なんとなく家父長制の雰囲気も読み取ることができます。

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①『船出』(一九一五年)

  さて、『高慢と偏見』から百年後、ウルフはデビュー作『船出』を発表します。南米行きの船に乗り込んだ若い女性主人公・レイチェルが、同乗した青年と恋に落ちるものの、熱病に冒されてしまい―という物語です。幸福感や死生観など、それ以降のウルフ的要素の萌芽が見られるという意味でも興味深い作品です。また個人的にはレイチェルと恋人との中盤のメロドラマに着目しています。燃え上がる二人の恋の様子をみて、わたしはオースティンの直接的な影響を感じました。

 結果をみるとオースティンと同じく said とone(ある〜)、次いで主人公の Rachel が来ています。しかし『高慢と偏見』とは異なり、他の登場人物の固有名詞は目立ちません。これは以降のウルフ作品にも見られる傾向です。またオースティンに対して、must がなくなっていることが興味深いです。この百年間で女性の意識が変化していったことが推測されます。かわりに see, looked, seemed, like など、人や物の状態、その視線を表す単語が多いように見えます。デビューの時点でオースティン的文体からはだいぶ離れ、ウルフが女性の内面の様子や意志を表現しようとしたことが読み取れます。

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②『ダロウェイ夫人』(一九二五年)および『灯台へ』(一九二七年)

  さてデビューから十年後、ウルフはこの二つの傑作を発表しましたが、その十年間になにがあったのでしょうか。ワードクラウドを見ると、以前からの要素に加えてthoughtやfeltの存在感が圧倒的に増しています。三人称の小説から、〈意識の流れ〉へ突入したウルフの文体の変化がはっきりと感じられる部分です。また now や moment も頻出しています。これらの単語から、いかにウルフが「いま、この瞬間」の主観的意識に肉薄していたのかがわかります。

 また、『船出』と異なり、さりげなく must の頻度が増えてきています。しかしその使われ方はオースティンの時代とは異なります。『ダロウェイ夫人』では「I must」はたった二回しか登場しませんが、「She must」「He must」といった三人称の文章がよく見られます。これらは地の文で展開される〈意識の流れ〉に通じていると考えられます。二作品ともに共通する単語も多く、ウルフの世界観を支える言葉がどんなものであるかがわかり、興味深く感じられます。

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第3章:エッセイ『自分ひとりのラーメン A Ramen of One's Own』

―デヴィッド・ロウリー監督『ア・ゴースト・ストーリー』を観て

いつ目覚めても、ドアが閉まる音がした。

Whatever hour you woke there was a door shutting.

 『ア・ゴースト・ストーリー』の冒頭は、ヴァージニア・ウルフの短編「A Haunted House」の引用から始まる。セリフはほとんどない。シーツをまとった男—ゴースト—は自らの死を知ったあと、そろりそろりと家に戻り、妻を見守り続ける。シーツの中には本当にケイシー・アフレックが入って演技をしていたという。そのわずかな動きで、微かな感情が表現される。スタンダードサイズと言うのだろうか、ほぼ正方形のスクリーンが、静かな物語に奥行きを与え、どこかポップなものにしている。生前、ミュージシャンだった男が歌う曲はキラキラとしていて、夫婦の確かな愛、温かい絆を表現していた。

 中でも忘れられないのが、帰らぬ人となった夫を待つルーニー・マーラが、ひとりで台所でパイを食べる、ワンカット・超長回しの場面だ。はじめは少しだけ食べるつもりだったのだろう。つまみ食い程度に立ち食いしていたのが、やがて取り憑かれたように床に座り、がつがつとパイを食べ続けるのである。音楽はなく、キャメラも動いたり寄ったりすることなく、ある一点から彼女を撮り続ける。その遠さから、わたしたちはマーラの顔を見ることすらできない。きっと虚ろな目をしているのだろうと想像するだけだ。ただ、彼女は食べている。それだけなのに、わたしはたまらなくそのパイが食べたくなってしまったのだ。あんなふうに、台所で、床に体育座りして、皿いっぱいのパイを。

 食べる女の子、で思い出すのは、フランス映画『アデル、ブルーは熱い色』の主人公・アデルだ。冒頭、彼女は自宅で家族とボロネーゼのパスタを食べるのだが、この食べ方がすごい。くちゃくちゃと音を立て、ぼろぼろと唇からひき肉をこぼしながら、どこか焦点の定まらない目で、食べる。アデルは物語途中でレア・セドゥ演じるエマと出会い恋に落ちて、多感な時期に大人になっていくのだけれど、この冒頭のシーンではアデルの幼さ、無垢さ、十代の気怠さが、数十秒の間に余すところなく凝縮されている。それにしてもこのシーンのアデルの食べっぷりはすさまじい。お世辞にもきれいな食べ方とは言えない。それなのにこのボロネーゼ、おいしそうに見えて仕方ないのだ。官能に直接訴えかけてくるような強烈さでアデルは食べる。三時間近くあるこの映画で、美しかったシーン、昂ぶったシーン、切なかったシーン、いろいろある。けれど今アデルのことを思うとき、真っ先に思い浮かぶのは、あのボロネーゼを食べる彼女のぼんやりとした瞳なのである。

 しかしわたしの中での食べる女ナンバーワンといえば、何と言ってもウォン・カーウァイ監督の香港映画『天使の涙』に出てくるエージェントの女の子だろう。ラストシーン近く、彼女は恋をしていた殺し屋の男を失い、ひとり飯屋で虚ろな顔で麺を食べる。その麺の、なんとまあ、まずそうなことか。日本のカップ焼きそばのような見た目の麺なのだけれども、何の味付けもなさそうで、麺同士がくっつきぼそぼそとしている。店では男たちがガヤガヤと騒がしいのに、彼女の周りだけ、切り離されたように宇宙的な孤独に満ちている。

 彼女は食べる。まずそうな麺を、無表情で、淡々と食べ続ける。ただそれだけなのに、その麺がたまらなくおいしそうに見えてしまうのは、どうしてなのだろう? あんなにせつない麺の食べ方、他に観たことがない。

 若さや絶望、喪失の中でものを食べる女の子。彼女たちがスクリーンに映るたびに思う。ああこれは、わたしたちだと。わたしが彼女なのだと。生きていれば、食事の時間はやってくる、傷ついた心を慰めるとか、愛しい人とお腹を満たすとか、そういうことじゃない。生きるために―今、この瞬間ををやり過ごすために―彼女たちは食べる。たったそれだけのことが、とても眩しい。

 虚ろな瞳でがつがつと食べる彼女たちを目撃し、映画館から出てくる度に、ああ今日は一人ラーメンを食べて帰ろうと、そう思うのである。

 いつ目覚めても、お腹が鳴る音がした。

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